歩くこと

いつもは、仕事のために車で出かける。車で10分くらい。車のキーをもち、ドアの鍵をかけ、じゃらじゃらとキーホルダーをバックの中に押し込んでエレベーターに乗る。毎朝の習慣だ。車に乗り込み、エンジンをかけ、ゆっくりとアクセルを踏み、出発だ。左右を確認して信号を見て、進むんだ。見慣れたビルが通りすぎ、通行人も窓からながれていく。いたって普通の風景だ。

ある朝、都合があって、職場まで歩いてみた。「歩く」右足と左足を交互にだしながら、体重移動する行為だ。単純にいうと、バランスを崩してそれを左右の足で支えながら歩く行為で、頭を使わない動作になる。頭を使わないというのは、「えーと、右足を次にだして、左足をだして」などど、考えなくていい動作であるらしい。赤ちゃんの、はいはいの時代から獲得している自動運動だ。車の運転と同じだ。車の運転も動作として一度習得してしまうと、全く無意識に行われる。

「歩く」、道路にでると、景色が全くちがう。当たり前だが、運転の時にみる風景ではない。空気の匂いがちがう。通行人が少ないので、マスクをはずしてみた。うーん!新鮮!、胸いっぱいに朝の空気を吸ってみる。車のエアコンの空気とは違う。「生きている空気!」という感じ。そして、私の肺に朝の気体が流れ込み体全体に染みわたる感じ。

周りの景色も違う。車内では気がつかない道路の花。紫陽花の群生、芙蓉の群生、流れる川の水、岩手山や姫神山、はっきり見えないけど、ぼんやりとメッセージを送っている。道路のコンクリートから芽をだす逞しい草たち。すみません。見過ごしていました。

行き交う人もちがう。遠くでおしゃべりしながら歩いてくる男女。マスクを外して足早に歩くビジネスマン。ん? ガムを口に放り込んだね。犬の散歩をゆったりと楽しんでいる白髪まじりの男性。橋を渡る風、なんだか、ゆっくりと時間が流れているようだ。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、私の五感が第六感を研ぎ澄ます。同じ自動運動でも 、得る情報がこんなにもちがうんだね。当たり前だけど。ルーティン化した習慣は一つの感覚を失う気がする。あぶない、あぶない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました